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いなかの猫の天邪鬼部屋

小説「愛した後に」

小説「愛した後に」


2009年秋・男

結論はとっくに出ていた。
医者の説明はまだ続いている。
スイスの病院は皆こんなに患者への説明が長いのだろうか?懇切丁寧なのはいいが、僕にはまるで決定的な一言を先延ばしにしてグズグスしているように見える。
「単力直入に言ってもらえませんか?」
耐えられなくなって僕は口を挿んだ。
「僕に残されている時間はどれだけなのか」

(あと1ケ月から2ケ月。ヒョシンさん、やりたい事があるのなら今のうちに・・・)
医者の言葉が頭の中を回っている。
その言葉の呪縛から逃れようとでもするかのように、僕は自分のボロアパートに向かってズンズンと歩いた。
もうすぐ僕は死ぬ。まだ28歳だと言うのに。売れない歌手もどきのままで、僕は死ぬ。
そうなったら彼女は・・・シヨンはどうなる?生活能力もろくになく、幼くて、ひたすら僕を愛してくれるシヨンは。
シヨン・・・僕のアパートで初めて二人が結ばれた日、彼女は自分の家に戻らず、そのまま泊まって行った。
次の日も、その次の日も、彼女はそのままそこにいた。そして今もまだ彼女はそこにいる。
「・・・オッパ!」
突然、シヨンの嬉しそうな声が耳に飛び込んで来た。
医者の声を振り払いながら歩くうちに、僕はアパートの前まで辿り着いていた。
「ねえ、擦りむいちゃったの。部屋までおんぶして行ってよ」
見ると、短パンから覗くシヨンの膝が、うっすらと擦りむけている。
「馬鹿だな」と笑って見せると、シヨンはそれを肯定と解したのか僕の背中に飛び付いて来た。
「あとで絆創膏貼ってね」
僕の背中で足をブラブラさせ、シヨンはどこまでも無邪気だ。

「・・・大体な、シヨンはドジでよく転ぶのに、短パンで走り回ったりするからだ。せっかく美人に生まれて来たんだから、スカートをはくとかして少しは女らしく・・・」
「ねえ、なぞなぞ。オッパは分かる?」
「・・・は?」
アパートに戻って絆創膏で傷の手当をしてやりながら説教を試みる僕に、シヨンは急に話題を変えた。
「お金持ちには高価で貧乏人はたくさん持っている物は何?」
「さあ・・・」
「・・・時間じゃないの、馬鹿。つまんない」
プイと横を向くと、シヨンは立ち上がって僕の側を逃れ、隣の部屋に移動して行った。

僕はシヨンに何も与えられなかった。そう・・・貧乏だからこそ自分たちにはたくさん与えられていると、そうシヨンが信じている時間さえも。

だから、僕は・・・。


2010年秋・女

玄関のベルが鳴っている。
「・・・うるさいなあ、もう」
私は不機嫌に起き上がり、手元に転がっていた置時計を掴んだ。
午前9時30分。まだ早朝じゃないの。
勿論世間の人たちは、とっくに起きて活動している時間だろう。でも数か月前、同棲していた彼氏に突然消えられ、それ以来廃人のように生きている私にとって、午前9時30分は、まだ夢の中の時間なのだ。
・・・ベルはしつこく鳴っている。
私はため息をついて立ち上がり、渋々玄関に向かった。
「小包のお届けでーす!」「はあ、どうも御苦労様です」「じゃ、どうも~!」
やたら爽やかな郵便配達員を見送り、受け取った小包に目をやる。
・・・差出人は、いなくなった彼氏・・・ヒョシンオッパだった。
「何なの?今更」
訝りながら小包を開くと、中から出て来たのはICレコーダー。スイッチを入れると彼の肉声が聞こえて来た。
(驚いた?今日は君の誕生日じゃないか。誕生日おめでとう。でも、誕生日だと言うのに髪は整えていないし風呂にも入っていないし)
・・・私は反射的に髪に手をやった。どこかで見ているのかしら?
(まだ、君は僕がいなければ何も出来ないんだな。だけど、もう僕は行かないとならないんだ。そして、ごめん。今日は君に誕生日プレゼントを用意してあるんだ。僕たちが初めてキスした場所を憶えてる?そこで会おう)

精一杯めかし込んで、私は二人の初キスの場所へ向かった。
そこは民家の塀の奥まった場所だった。
でもそこに彼は居なくて、代わりに塀の隙間に地図と鍵が差し込まれていた。そして、地図の場所にあった地下室の入り口みたいなドアをその鍵で開けると、予想どおりドアの向こうに開けた地下室の中にまた別の地図が置いてあって・・・。
こんな調子で次々と出される指示に従い、私はついにアルプスの登山道ロープウェイを終着駅までやって来てしまった。
(終着駅のポストに入っている地図にマークされた場所に行きなさい)
それが最後の指示だった。
そこへ行けば彼に会えるのだろうか?
私ははやる気持ちを抑え、雪道に足を取られながら夢中で最後の場所に向かった。
そして、そこに「彼」はいた。

「・・・シヨン、これを知ってるかい?」
遠くに連なるアルプス山脈を背にし、「彼」が手に持っていた紙切れを私に見せてくれた。
「あ・・・」私は驚愕した。
見覚えがあった。これは・・・彼が書いていた楽譜だ。
途中まで書かれて机に投げ出されていたものを、こっそりと見たのだ。
売れない歌手もどきだった彼が、売れなくても売れなくても作り続ける曲が、それでも私は大好きだった。
でも今度の曲は本当に良さそうだった。私だって譜面くらいは読めるもの。
(今度のはイケるよ。私が保証する)
作りかけの譜面をこっそり見たのを怒られるかな?と思いながらも、朝になったらそう言ってあげようとワクワクしながらベッドに入ったのだ。
「・・・君らしいな」
「でも目が覚めたらオッパはいなくなっていたのよ。それからずっと・・・」
言葉が途切れた。
「彼」は楽譜に目を落とし、そこに書かれている歌を、私のために作ってくれた歌を、私に向って歌い始めた。

最高の誕生日プレゼントだった。そして最後の。

(お金持ちには高価で貧乏人はたくさん持っている物は何?)
(さあ・・・)
(・・時間じゃないの、馬鹿。つまんない)
あの時、もう彼は自分の残りの時間を知っていたのだろうか?(だから貧乏な私たちには時間がたくさんあるのよ)そう仄めかせるつもりであのなぞなぞを出した時、彼がどんな顔をしていたのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。
そんな事を思ったら、ようやく涙が出て来た。そしてその後は、ただ泣き崩れるだけだった。
目の前では「彼」が・・・ヒョシンオッパの実兄のヨンハ兄さんが、彼から託された私への誕生日プレゼントを、彼の代わりに私に与え続けていた。


ヒョシンからヨンハへの手紙

前略。
兄さん、昨日は突然押し掛けて、ごめん。
でのあの時兄さんに言った事・・・僕の余命が1ヶ月か2ヶ月というのは、本当の事です。
病名は癌。だから今後はどんどん痩せ衰えて行くと思います。
そんな姿は誰にも見せたくないから、僕はもうこれっきり、兄さんの前からも、それからシヨンの前からも、姿を消す事にします。
最後に一つ、頼み事があるのだけど、いいかな?
それはシヨンの事。
あいつには今まで何もしてやれなかったから、最後に贈り物をしてやろうと思うんだ。
僕がシヨンだけのために作った歌を、シヨンの誕生日に歌ってやる事。
シンプルだろう?
でも、この計画には大きな欠点があるんだ。
それは、たぶん僕はシヨンの誕生日まで生きていられないって事。
だからその歌を、代わりに兄さんが歌ってやって欲しい。そして、その時に僕が死んだ事をシヨンに教えてやってください。
・・・無責任だよね。自分が死ぬ事を恋人に言う事が出来ずに兄さんに押し付けるなんて。だけどシヨンにはどうしても言えなかったんだ。
曲が出来たら楽譜を送ります。兄さんとシヨンが会える段取りは、今のうちに僕がつけておくから心配しないで。
それから・・・僕はずっと前から兄さんの気持ちを知っていました。
だから、兄さんにこんな頼み事をするのが余計に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
本当に、こんな事になるならシヨンが好きな人は僕でなく兄さんだったら良かったのに。
そんなわけで、この計画には、兄さんとシヨンを、僕を失うという共通項を持った状態で改めて出会わせる、という意図も含まれています。
出会いの場所は、思いっ切りロマンチックな場所を計画しているからね。
寂しがり屋のシヨンを一人残すのも心配だし。

・・・あれれ?さっきから僕は何を書いているんだろう?
ダメダメ!シヨンは僕の恋人なんだから。
・・・自分の本心が分からないや。
とにかく!
僕は兄さんを愛していました。これ、変な意味じゃないからね。
それじゃ、僕は一足先に向こうで待っているから。何十年後かの再会を楽しみしています。

                                          弟・ヒョシンより





           -完-


(2009.09.16)


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